小矢部市開発の祖「前田利秀公感謝祭」
文禄二年十二月十九日命日四百二十四回忌(平成二十八年)
日蓮宗 津幡山 本行寺にて執り行われました。
利秀公は、今石動四万石城主として在世七年、幾多の戦乱を経て
経世家としての優れた素質がさらに磨かれ、今石動及び近郊の
まちづくりに貢献されました。
【墓前祭】
【感謝祭】
献灯・献花 石動幼稚園 園児
祭文奏上
■前田利秀公の生涯とその後の歩み■
小矢部市の開祖、今石動城主前田利秀公は、加賀藩初代藩主前田利家の弟、秀継の嫡男で幼名を又二郎といいました。
秀継と利秀は、加賀の津幡城を固めていましたが、天正十三年(一五八五)四月に前田利家は吉原村白馬山頂(現在の城山)に城を築き、秀継・利秀に守らせました。
この地は、加賀と越中の国境であり、北陸街道面し、大変重要な地でありました。
同年の九月ごろ、利家は秀継を木舟(福岡町)の城主とし、今石動城は利秀に守りを固めさせました。
ところが、その年の十一月、天地もゆるがす大地震がおこり木舟城は崩壊し埋没の惨状となり、城主秀継夫妻は圧死されました。
利秀は直ちに災害の処理をいたし、両親の遺骸を宮島矢波の曹洞宗高徳寺(現在の永傳寺)に手あつく葬りました。
利家は、利秀を今石動城四万石の城主に封じました。
利秀は災害の後始末をしてあけて天正十四年(一五八六)城主として入場いたしました。
利秀公、十九歳の凛々しい青年城主、人々は獅子舞で歓び迎えたと伝えられています。
城主利秀は、領内住民の生活安定に心を砕き、町づくりを設計いたしました。
先ず近郷より木舟の本行寺をはじめ寺院を移し、寺院には夫役(労働課役)を免じ、寺屋敷の地子(宅地税)を免除しました。
又、被害にあった木舟城下の住民を迎え、農業、鉄鋼業、織物業などの普及につとめ、町づくりをすすめました。
百姓の鍬・鎌・釘などの日常雑器をつくり山野に自生する苧麻(ちょま)、蚕からとれる糸、糸を紡ぎ布を織る賃かせぎなど、加えて遠く江戸・京都に通じる北陸街道のとおるまち、有事に備えるとともに平素の暮らしを豊かにと、将来を展望しながら着々と進めました。
文禄二年(一五九三)三月豊臣秀吉の文禄役に、日頃より前田利家及び長子利長の片腕として勇武の名高い利秀は、勇躍征途につきました。
然し、備前の名護屋(現、佐賀県)におもむく途中、病気となり雄図空しく帰国し、同年十二月十九日、薬石効なく他界いたされました。
法名 良将院殿光等生慧大居士
葬儀は、今石動的場(城山町奥大谷)においての能登滝谷の妙成寺住職日充上人、導師となり執行され、遺骸は本行寺の墓地に葬らせました。
利秀公菩提寺本行寺は、天文五年(一五三六)加賀国小原谷梨木村本乗寺住僧の蓮行院日統が能登国七尾に創建したと伝えられています。
天正十一年(一五八三)秀継・利秀の津幡在城と共に本行寺も津幡に移転し、天正十三年(一五八五)秀継、木舟行に移り、寺も木舟に移転、
天正十四年(一五八六)利秀が今石動城主となるや、本行寺もまた、今石動へ移転した由縁の寺であります。
利秀は、今石動四万石城主として在世7年、幾多の戦乱を経て経世家としての優れた素質がさらに磨かれ、今石動及び近郊のまちづくりに貢献されました。
公には嗣子なく、然しながら今石動は要衝の地であり、加賀藩は異例をもって、家老篠島織部清了をして今石動に留まらせ今石動奉公に任じ、遺領地を治めさせました。
初代清了より、五代清英まで世襲により今石動奉行として、さらに砺波・射水の軍奉公も兼ね、城主利秀公の遺志をつぎ約百十数年にわたって行われた治政・町づくりが、城下町から宿場町へと、そして金沢と富山の中間にあって今日の小矢部市へと発展してきたのであります。
昭和五七年(一九八二)十月一日、市制二十周年式典には、加賀藩十七代前田利建夫妻及び今石動城家老篠島清了末裔十七代篠島正和夫妻がご臨席になり、また、利秀公縁起書一巻を編み感謝申し上げました。
昭和五十八年八月一日、開祖利秀公四百年祭を執とり行うにあたり利建夫妻及び奉賛会顧問、吉竹寛一しを迎え、矢波の高徳公園、津沢藩蔵跡の記念公園の開園式ならびに利継公・利秀公の頌徳碑除幕式が行われました。
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